【羊毛講座3】ウールを製造加工する人々【藤井一義】

3.イギリス商業資本の活動

14世紀半ば頃からイギリス王朝が次から次へと採用していった重商主義政策がタイムリーにしかも完璧に実現できた理由は、政策自身が優れて戦略的であったことから政策の執行者もまた優れた実行能力を持っていたからだと思われます。

1:しかし偶然とは言えイギリス王朝の採用した転換方針が、実に絶妙のタイミングで、新大陸と東インド新航路発見に先立つ約半世紀前に完了していたことが先ず第一の理由に挙げられます。それは転換方針の担い手となった多くのカンパニー組織のもとで活動した毛織物商(draper)達が、後発者でありながら他国商人に比較してごく短期間に毛織物取引の実力を修練できて先ず14世紀中に国内市場に寄生していた外国商業資本を撃退してしまったことです。

2:さらに成功の裏付けとなった事情はイギリスの毛織物工業が14世紀半ば頃から15世紀半ば頃までの約1世紀の間に海外市場で西ヨーロッパ先進国を充分圧倒できるだけ良質で廉価な毛織物を大量に製造できる能力を整えるまでに急成長できたこと、の2点です。

タイミングの点を別にしてこの2点について追及しますと、カンパニー組織は従来から羊毛原料輸出を行なってきた羊毛商組合のギルド組織をそのまま踏襲しましたのでイギリスもイタリアのような西ヨーロッパの毛織物に関連した商人ギルドと比較して組織そのものは何の相違も認められません。それどころかむしろ毛織物輸出にしても毛織物工業にしても西ヨーロッパでは後発国で、立地条件や消費人口等競争上のハンディキャップを随分たくさん抱えていた筈だったのに僅か1世紀かそこらの間に貿易商人と毛織物製造職人が揃って何百年も続けてきた他国のレベルまで急成長を遂げたことは非常に驚異的な出来事だったと思われます。

したがって、この転換政策がタイムリーに成功した真実の理由は、カンパニーを構成して世界貿易史上目覚ましい活躍を行なった「毛織物商」(draper)と呼ばれた新興商人層の人々と実際にウールを利用して毛織物の製造加工に携わった人々の考え方や行動様式の中に求めざるを得ません。必ずそこにはイギリス人でなければ成し遂げられなかった独特の国民的な特性が潜んでいる筈です。

そこで先ず「毛織物商」ないし「毛織輸出商」と呼ばれた商人達の辿った足跡を検討してみたいと思います。

(1)「毛織物商」をめぐる背景事情

13世紀半ば頃から14世紀にかけて西ヨーロッパ全体は未だ封建制度の中で長い眠りを続けていましたが、イギリスでは大陸の各国よりも比較的早くから封建制土地制度や身分(農奴)制度が徐々に崩壊していました。

その理由として考えられる事情は、農業とともに古くから行なわれてきた牧羊業によってウール生産が増加するにしたがって農民(農奴)の貨幣収入が増えてゆき懐が暖かくなる一方で、封建制土地制度の下で農民の義務として定められていた「地代労働」が次第に金納化の方向を辿っていました。さらにこの金納化が進めば進むほど農民達は封建体制下の身分的拘束や役務労働の義務から解放されてゆく傾向が農村に広がり始めていました。

やがて14世紀半ば頃には、イングランドでは既に農村を中心に毛織物工業が広範囲にしかも根強く自生していましたので、ちょうど羊毛原料輸出から毛織物輸出への政策転換が行なわれ毛織物の製造加工は「農民の副業」として儲かる仕事だと言う考えが定着している情況だったのです。

したがって14世紀に入ってからは中央都市よりもむしろ農村を土台にして商業取引や手工業も次第に活気を帯びながら貨幣化が進み商品流通が拡大してゆくようになり、一般庶民の中にはそろそろ新しい時代の「息吹き」を感じる者も出始めていたのです。

(2)「毛織物商」の生い立ち

「毛織物商」と言われる商人達の出身は羊毛商の一部あるいは織物の仕上げ工職人の上層部とか言われていますが、長い間続いてきた封建制度の色々な束縛から脱出して、多少でも新しい『毛織物の時代』に対して希望をもちながら転職していったものと推定します。したがって羊毛商組合の消極的な活動とはなんらかの形で一線を画したい思いで、初めは外国商業資本に対抗しようと決意したに相違ありません。利潤追求のためには宗教的規範や社会的慣例に反した行動でも敢えて辞さない外国高利貸し資本のしつこい寄生的な態度や侵蝕に対して反感を抱いたからこそ、はっきりライバル意識をもって外国資本排斥の先頭に立つことが出来たと思われます。

註1:カンパニー
ギルド(同職組合または同業組合)と同義語として使用しています。16世紀から18世紀にかけてオランダ、イギリス、スペイン、フランスなどでは東方貿易やアメリカ新大陸貿易のために設立されています。その後紆余曲折を経て株式企業に発展しました。

資料提供:ザ・ウールマーク・カンパニー(IWSマンスリー連載より)

14世紀末から15世紀にかけて都市や農村のあちらこちらで社会体制が次第に破壊され一般庶民の間に動揺がひろがっていく中で、毛織物商は主要都市に新設された毛織物市場(Cloth Hall)を舞台にして毛織物の国内取引や都市か近郊での小売営業を営むことができる特権が与えられ、「毛織物商組合」というカンパニーの構成員として市場参入することになりました。

しかしながら毛織物の国内取引はまだまだ成熟していない市場であった上に、従来からほとんどの取引が羊毛商のようなギルド商人やイタリア、ドイツ等の外国商業資本の手で牛耳られてきた関係で、生産業者から毛織物を買い付ける購入面では旧ギルド組織と競合し、一方毛織物を販売する面では豊富な資金と強力な輸出販売市場をもっている外国商業資本と真正面からぶつかって競争しなければならなかったのです。

したがって毛織物商は公認の新設市場で取引活動が公認された新興商人ではありましたが、実際の商業取引では旧体制で凝り固まった先行者の蔭に隠れて実力を発揮したり存在が認められるには相当の時間と忍耐が必要でした。

しかし毛織物商は重商主義政策にそって羊毛輸出から毛織物輸出に転換する目的で毛織物の国内市場を作り上げてゆかなければならない役目を背負うことになったのですから、廉価で良質の毛織物を供給できなければ存在価値がないわけで、その意味では国内市場における彼等の活動基盤はすべて毛織物工業の成長の上にあったのです。

このような事情で、毛織物商は羊毛商をはじめ他のカンパニー商人たちと複雑に組み合いながら、まず何をおいても毛織物の国内市場を優先的に建設しようとする努力を重ねてゆき、後世マーチャント・アドベンチャラーズ組合や東インド会社のようなイギリスの世界貿易システムを構築する基礎づくりの役割を果すことが出来たのです。

(3)「工業村落」の成立

(註1:工業村落参照)
14世紀末頃から15世紀前半にかけて毛織物商にとっては非常に重大な試練の時がやって来ました。

中世都市に続いている狭苦しいギルド体制からはみ出した職人達(主に織布業に携わる「日雇い職人」や「小親方」たち)が農村に流れ出し、一方農村では封建制土地制度の崩壊によって荘園や所有地を追われた農民群の一部が合流して、小規模ながら毛織物工業(小さなマニュファクチャー)を営み、このような毛織物生産者達が農村の全域にわたって急速に展開してゆく情勢となりました。

さらにこの展開の様子を細かく見ると、比較的多くの小規模の毛織物生産者達を取り巻くような格好で少数の他業種の手工業者達(例えば鍛冶屋、大工、皮革職人、金属加工職人など)も加わり、これらの商品生産者達が主な住民となっているいわば「工業村落」が農村地域のあちらこちらに群生して来たのです。

そして数個の「工業村落」がお互いに連携しあってその中心となる村落で毎週「市(いち)」を開き、農民も職人も自分達の生産した商品を持ち寄って取引を行い、穀物、羊毛、毛織物、金物などをはじめ日用必需品を相互に調達しあって、一応経済的に自給自足ができる「工業村落群」が生まれてゆきました。そしてこれらの「工業村落群」同士がさらにつながりますと、そこには生活圏と工業圏とが合体したひとくくりの地域産地(経済圏)が形成されることになったのです。

このように自然発生的と言ってもよい形で連携された「工業村落群」で出来上がった経済圏は「局地的市場圏」と呼ばれ、従来の中世都市に対立する農村と言った関係や機能・性格が全く違った市場圏でした。

先ず「工業村落」が本来持っている自給自足の経済的機能をそのまま維持しながら、地域的に重なり合ったり統合されたりして「局地的市場圏」が出来上がっていったのですから、この市場圏には当然自給自足の経済的機能が備わっていました。したがってこれらの「局地的市場圏」がつくっているイギリスの国内市場は、他国の種々雑多な業態や機能を持った地域経済圏を総括して国内市場と呼ぶ場合とは相当違った特性を持っていたわけです。

このような農村地域での毛織物工業を中心とする急展開に反して、中世都市では商品生産者や一般庶民が郊外へ農村へと逃避していったため人口は減少し、勢い商業にしても工業にしても衰退して行かざるを得ませんでした。

さらにこの「工業村落群」から成る「局地的市場圏」の中では、住民の日常生活や生産活動にとって不自由しない商品や貨幣の流通が行なわれる上に農地耕作者であろうが商品生産者であろうが自分の仕事をするのに何も区別されることはありませんでした。とくに毛織物生産者にとってはギルド組織や封建制度による束縛や強制を全く受けない、逆に言えば『営業の自由』が常に確保されているところで仕事ができることが最大の魅力で急速な発展を遂げてゆくことになったのです。

(4)不況と国内市場

工業村落群で構成されたこの局地的市場圏では商業活動も工業活動もその市場圏の中で一応完結してしまうことになります。例えば羊毛のような原材料は工業村落内に住む毛織物工業(小さなマニュファクチャー)の中でほとんど消費されてしまい、穀物や農産物も工業村落内の住民によってほとんど消費されてしまう結果、市場圏内の諸地域間で流通する商品量が非常に少なくなってきて生産物を取り扱う商業活動もすっかり停滞してしまうことになったのです。

結局15世紀に入ってから一時的ではありましたが国内取引も海外貿易もひどい不況状態に陥ってしまいました。実際問題として羊毛の輸出が止まって南ネーザーランドの毛織物工業が操業混乱を起こしたり、穀物の流通が止まって大都市ロンドンでは食料輸入を行なわなければならなくなったほどの影響を及ぽしています。

当時個人財閥として有名な大商人が破産し、外同資本も退却して多くのギルドが解体解散したりして、新興商人であった毛織物商を含む中世都市のギルド商人にとっては旧体制を断絶させるほどの大不況が襲ってきたのです。

しかしながら都市を中心としたこの不況をよそに、農村では依然として工業村落が展開され、次第にこれらの工業村落がまとまって新しいタイプの町(オープンタウン)すら建設されるようになりました。もちろん自営農民やマニュファクチャー所有者の小さな親方達(彼等を総称して「中産的生産者層」と呼びます)の活動はますます旺盛になり毛織物の生産は加速的に上昇してゆきました。

人口流出や商業取引が衰退してしまっていた中世都市もこのような農村での毛織物工業の繁栄に支えられ、毛織物の仕上げ工程等の委託加工や毛織物の商業取引を中心にして再び盛況を取り戻すことができるようになりましたが、結局この不況を転換期にしてイギリスの国内市場における経済活動は旧制ギルド支配の都市主導型から「中産的生産者層」を中軸とした農村主導型に主流を変えぎるを得なくなったのです。
(註2:オープンタウン参照)

多くの旧制ギルドが解体したために商人達の先頭に立つことになった毛織物商は、元来毛織物工業の生産を活動基盤としている以上、農村で活躍する「中産的生産者層」を取引の対象にして国内取引や輸出需要に適合した形の毛織物市場を新しく作ってゆくことになりました。しかし不況を契機にして彼等はかつて封建制や旧制ギルドが支配してきた毛織物市場には別れを告げて今や国民的規模に発展しつつある毛織物工業をニューリーダーとした新しい市場、つまり常に『営業の自由』が確保されている国内市場を新しく編成してゆく協力者となったのです。

註1:工業村落
大塚久雄著「歴史と現代」:朝日新聞社発行朝日選書143P67参照

註2:オープンタウン
大塚久雄著作集第5巻資本主義社会の形成2.:1.局地的市場圏参照

資料提供:ザ・ウールマーク・カンパニー(IWSマンスリー連載より)

中世都市が中世以来の特権に基づくギルド制で支配されている自治都市(corporate town)であるのに対して農村(country)はその自治権が及ばない地域を総称しています。オープンタウンとは14世紀に入ってから農村で自治都市のギルド制の支配を嫌った職人達や封建制による荘園(マナー制度)の規制を逃れた農民達が入り混じって自由に営業のできる町(農村都市:country town)として作ったものです。中世都市のような城壁に囲まれたわけでもなく田園の街道沿いに住民が思い思いに軒を連ねて文字通り規制や拘束を受けずに自由な雰囲気にあふれた、いわゆる『開かれた』新しい町作りを行なったものです。